pockkun's blog

50代の平凡な会社員の日々の”挑戦記”です

温故知新でリスクの軽減を

今回は歴史から成功事例を学ぶとともに、その成功の「その後」について、考えてみたいと思います。
一般に、偉人や成功者の話はそのプラスの面や功績のみばかりに注目されている傾向があります。確かに「成功したくば成功者に学べ」と言われるように、まずそこをおさえるべきですが、その人物の晩年や後継者による「その後」についても知っておく必要があるのではないかと思います。なぜなら、成功の程度が大きければ大きいほど、必ず衰退することは避けえることができません。
それならば、過去の成功事例の後に起こったことも把握しておくことで、成功後のリスクの軽減につながるのではないかと考えます。
一例として、今年のNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」の黒田官兵衛のケースを考えてみたいと思います。
まず、以下の引用をご参照ください。
外様大名40家「負け組」の処世術
榎本 秋著   幻冬舎新書より
筑前国福岡藩•黒田家
宇多源氏・佐々木氏の流れを汲み、近江国伊香郡黒田村に住んでこの名を名のるようになった。やがて播磨へ移り、小寺家に仕えてその家老となっていたが、黒田孝高(官兵衛)のとき、織田信長の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉の中国侵攻に協力し、やがて織田家に反抗した小寺家を離れて秀吉の与力となり、その躍進に大きく助力した。
その後を継いだ二代・長政の関ヶ原の戦いの功績(特に西軍への裏切り工作である小早川秀秋の裏切り、および吉川広家の主導による毛利軍の不戦は、長政の仲介)により、筑前一国および肥前筑後から二郡ずつ与えられ、五十万二千四百石余りの大藩となった。
長政が没するとその跡を嫡男である三代・忠之が継承したが、三男の長興には秋月藩五万石が、四男の高政には東蓮寺蓮四万石が、それぞれ分け与えられて支藩となった。前者は幕末まで続いたが、後者は嗣子を失って断然している。
初期の藩政において問題になったのが、五千石以上の高禄を有する家臣が多数存在し、藩主がその連合の長という立場を抜け出していなかったことである。
(中略)
後藤基次(又兵衛)の出奔(のちに大坂の陣に参戦し、討ち死に)と黒田騒動
ー安定と平和の時代において、武功を誇って秩序を乱す重臣は百害あって一利なしー
この事件が教訓になったか、長政およびその跡を継いだ忠之は孝高の時代以来の大身の家臣たちを取り潰し、減封することによって藩主の権力を強めようとした。
黒田二十四騎(または二十五騎)などとよばれている重臣たちや、孝高の兄弟につらなる一門衆などが領地を減らされ、あるいは追放されて、相対的に藩主の権力を強化する試みがなされていたのだ。
一方、忠之の治世の晩年には福岡藩財政危機が始まっており、これに対処する必要が出ていた。

この黒田官兵衛だけでなく、他の戦国武将、例えば、武田信玄毛利元就織田信長豊臣秀吉にも共通して言えることは、それぞれの後継者が、各人と同じレベルの業績を維持できなかった理由は、本人たちがそれだけ優れていたことはもちろんなのですが、後継者たちが有能な家臣団を使いこなせなかったことも一因のように思えます。

これは、現代の会社経営や一般家庭にも、あてはまるのではないでしょうか。

会社の場合:経営者とその後継者、従業員

家庭の場合:世帯主と配偶者、子どもたち

大企業や大家族になればなるほど、前述の戦国武将のケースが当てはまるのかもしれません。

いずれにせよ、彼らとその後継者の「その後」を学ぶことで、現代の我々にも起こりえるリスクを最小限に抑えるヒントを得てゆきましょう。f:id:pockkun:20140301215009j:plain